2023年1月14日(土)~17日(火) 宿毛~内子~道後温泉~高松~小豆島~東京 | |||||
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1/15(日) 朝6時に有名な道後温泉に入ろうと思っていたが、現在も工事中で、また、コロナ対策で一度に10人しか入浴できないので諦めた。幸いなことに、僕は、10年前に仕事で来たときに入ったことがあったが、同行したM画伯はがっかりしたようだった。 この日は、松山城を見学するM画伯と別れ、僕は、「正岡子規記念博物館」をゆっくり回った。正確には覚えていないが、「死を恐れることよりも生を恐れろ」といった子規の言葉を思い出した。かつて、「病牀六尺」を読み、脊椎カリエスに侵されながらも、俳句を文学の1つに位置づけるために短い人生をかけ、走り続けた生き方に、自分にはない「強さ」を感じ、子規の人生を再確認したかったのである。博物館で子規が使っていた座机に座り、また、親友の夏目漱石が松山中学校で英語教師をしていたときに子規と一時同居した「愚陀仏庵」に上がり、当時の机と火鉢の前に座り、二人の会話が流れるテープを聞いた。 <子規の人生に、改めて、尊敬の念を持った> 子規記念博物館を出て、後道後温泉から松山駅に市電で戻った。松山発13:26JR予讃線いしづち20号に乗るためだ。市電の横の席には、驚いた事に、昨日、松山駅から同じ市電に乗った老夫婦が座っていた。おそらく、道後温泉で一泊したらしい。2人の会話から、老夫婦も、同じいしづち20号に乗るらしかった。松山駅でM画伯と合流し高松に向かった。途中、伊予西条を通過した。これでほぼ四国を一周したことになる。 高松に15:55に着き、ホテルにチェックインしたあと、史跡高松城跡玉藻公園を散策した。高松藩の藩主は、徳川家の親戚の松平家で、高松城は日本にある代表的な海城である。庭園と披雲閣が美しかった。 夕食は骨付鳥で有名な寄鳥味鳥(よりどりみどり)で、骨付鳥をアテに瀬戸内ビールで一杯やった。 |
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1/16(月) 高松築港駅のコインロッカーに荷物9:30を預け、ことでん琴平線で琴電琴平に向かった。金毘羅様には、僕が高校の修学旅行で行って以来だから、もう、かなり前のことだ。参道を歩き約800の階段を登ったのだが、その風景にはほとんど記憶がない。人間の記憶などはアテにならないことを改めて感じた。 |
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(金比羅宮) | (5人百姓) | ||||
面白かったことは、参道の中ほどに店を出していた5人百姓と言う「こんぴら飴屋」で、お店のおばさんに声をかけられた。この5人百姓は、金刀比羅宮境内大門内にある5軒の飴屋のみが、800年まえから金毘羅様から参道の内側で店を出す許可をもらい、世襲制で営業しているとの事だった。今日は3人が店をだしており残りの2人は休みとの事だった。しばらく話をして、1人から500円の加美代飴を買った。 階段をのぼりながら、もう1つ気になったのは、金毘羅様には、寄付の金額と名前が、そこら中の柱や、鳥居までに書かれていた。異民族の僕などから見ると、金毘羅様の文化的な価値が堕ちるというか、人の欲や名誉欲などが垣間みえて、心の奥の方で座り心地がワルいような気がした。 参拝を終えて、琴電で高松築港まで戻り15:50発の小豆島高速フェリーに乗り土庄に向かった。土庄は昔はやった「瀬戸の花嫁」の舞台だ。僕は土庄の港に入る前に左側に見える沖の島を見ながら「瀬戸の花嫁」の歌詞を口ずさんでいた。 沖の島が「瀬戸の花嫁」の生れた島となっているからだ。 |
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瀬戸は日暮れて 夕波小波 あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの だんだん畑と さよならするのよ 幼い弟行くなと泣いた 男だったら 泣いたりせずに 父さん母さん 大事にしてね |
岬まわるの 小さな船が 生れた島が 遠くになるわ 入江の向うで 見送る人たちに 別れ告げたら 涙が出たわ 島から島へと 渡ってゆくのよ あなたとこれから 生きてくわたし 瀬戸は夕焼け 明日も晴れる 二人の門出 祝っているわ |
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まさに、この歌詞の景色が目の前にあった。土庄からは、男木島、女木島、豊島などの連絡船が今でも出ている。 その夜は、小豆島温泉オーキドホテルに泊まった。夜は、考えていた寿司屋は残念ながら休日で、しかたなく近くの居酒屋に行ったがはずれだった。 |
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