2023年1月14日(土)~17日(火) 宿毛~内子~道後温泉~高松~小豆島~東京
  

1/14(土)
T夫妻に宿毛駅まで車で送ってもらい、宿毛発8:59の宇和島自動車(バス)でJR宇和島駅に向かった。2時間の路線バスの旅だ。あいにくの雨、やや、開けた谷合の集落の道を進む。右側の斜面には場違いな太陽光発電パネル団地、僕みたいな異民族は、この景観をみるとすぐに興を失って首をうなだれてしまうのだ。
バスは56号線を、ゆっくりと、進む。手前の山とその後ろに控えている山の間には霧が発生し、その霧は谷間に滞留し、少しも動く気配がしない。
バスは何事もなかったように進んでいく。道は下っているようだ。すると、突然、左側に入り江が出現した。しかし、驚くにはあたらない、地形がそのような形になっており、バスは、谷あいの山、入江、谷あいの細い道、入江と、景色が交互に繰り返され、やがて、小さな町にでた。
乗客は我々2名のみだったが町のバス停で一人の乗り、ここから、徐々に地元の人が乗ってきて、総勢6名となった、バスはしばらくの間この人数で進んでいたが、緑の電話ボックスのある停留所で2名の客が下りる。
この町並みが過ぎると、バスは愛南町にはいり、また、山間部を走る。しばらくするとバスは美しい海外線を進む。小さなとんがり島が3つ、少し離れたところにもう1つの島、その後ろにはひょっこりひょうたん島のような形の島や美しい入り江が続く。大きく入り込んだ入江は、一見、湖と間違えてしまいそうだ。波一つなく、鏡のような水面だからだ。
入江が複雑に入り込み、その入江の後ろの山は海まで切り込み、さらに、その後ろには、また山が幾重にも控えている。入江を過ぎると、また美しい海岸線が続く。点在する島々が丁度よい大きさと形でバランスよく配置され、まさに、自然が生んだキャンパスそのままだ。これで天気が快晴ならば、海の色は沖縄の海のように真っ青になるだろう。
バスはやがて宇和島市内に入り、地元の人々の乗り降りを繰り返し、宇和島駅前に着いた。宇和島は伊達政宗の第1子の秀宗が徳川幕府から10万石を封じられ、1871年の廃藩置県まで続いている。駅前の一見日本とは思えないワシントンヤシの通りを散策し、カフェを飲み、宇和島発11:50のJR予讃線宇和海14号で内子に向かった。
内子は昔の街並みが残っている落ち着いたところだ。内子駅のコインロッカーに荷物を預け、タクシーで街並み保存地区へ行く、そこから歩きで駅までブラブラ戻るプランだ。タクシーから足を一歩踏み出すと、白壁や薄い茶色の壁の街並みが続く。挿絵画家のM氏は、早速、町並みの風景を写真にとっている。僕は、このような風景、僕が言う風景とは、単に景色だけではなく、そこに住んでいる人々までが、都会のあわただしい暮らしに追われ、ぎすぎすした人たちではなく、町並みとゆっくり流れる時に同化した「品」の良い「素朴」な人たちを含んだ風景なのだ。

(内子の町並み) (内子の町並み)
 
白蝋で財を成した芳賀家を見学した。白蝋とは、「はぜ」の実の皮から得られる木蝋(もくろう)をさらし漂白したもので、ロウソクの原料や力士の髷付け油としても用いられている。江戸時代の終わりに大洲藩で商品作物として導入され、栃木家芳賀郡から移住した芳賀家が始めたといわれている。明治になっても、白蝋は希少な輸出品となり、新政府の外貨獲得に貢献している。
案内してくれたボランティアの女性は、芳賀家と白蝋の経緯を丁寧に説明してくれ,最後に庭の奥に残っているハゼの木を見せてくれた。その女性は、まさしく、僕が風景の中で想像した「素朴な、落ち着いた」女性だった。
その後、内子座を見学した。内子座は秋田の小坂町にある康楽館と同じような回り舞台や切穴がある構造で、17名の地元町民の寄付により作られたらしい。金持ちの芳賀家は寄付していないようだった。
なぜなのだろうか?
おそらく、芳賀家は栃木の芳賀郡から江戸期にこの地に入ってきたので、地元の家ではないのが原因かもしれないが、よくは分からない。
 
内子駅から、再びJR予讃線宇和海20号に乗り松山駅で降り、駅から市電で、本日の宿泊地である道後温泉へと向かった。夜は道後温泉駅の近くの「かどや」で「松山鯛めし」を食べた。愛媛は「鯛めし」で有名だが、「鯛めし」には「松山鯛めし(タイの切り身の炊き込み飯)」と「宇和島鯛めし(白米に鯛の切り身を載せ、醤油だれと卵をかける)」があり、3年前に来たときに、「宇和島鯛めし」を食べたので、今回は「松山鯛めし」にしたが、僕には「宇和島鯛めし」のほうが美味く感じた。もっとも、前回食べた「宇和島鯛めし」は、松山大街道の宇和島鯛めし専門店の「もとやま」で食べたので、その違いかも知れなかった。
 
  
 
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