2023年1月10日(火)~13日(金) 東京~伊予西条~高知~馬路村~室戸岬~足摺岬
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大歩危駅を過ぎ、いくつかのトンネルを抜けると、吉野川の谷もやや浅くなり、V字谷の角度が浅くなり、川側の崖に木々がはえ、川の流れも緩やかになってきた。すると河原が広がり、流された石の形状も角が削ずられ、丸みを帯びてくる。さらに、嘘のように川の色が汚らしい黒っぽい茶色に変わっていく。川の流れも水の量も弱くなってくる。大田口を過ぎたあたりのトンネル付近で吉野川はいくつかの支流に別れ、やがて本流も見えなくなっていった。
私は、良くはわからないがGood Luck 四国三郎・・・と呟いた。

列車からはすでに吉野川は見えなくなっていた。おそらく、上流は石鎚山付近の源流に向かい、下流は先程通過した阿波池田の先の平野部にはいり、流れはゆったりと、大らかな大人のように悠々となり、大河のごとく徳島から和歌山湾に流れこんでいくのだ。
次の表現が正しいかはトレースできないが、川もそれ自身が人生と同じように流れているのだ。石鎚山付近の沢の一滴の水滴から流れ出した吉野川は、大歩危、小歩危の渓谷を流れ、終着地の徳島市の河口から和歌山湾へと流れこみ、大海の一滴になるのだ。その時に、吉野川の水は「俺は四国三郎・吉野川の水だ」と自己主張するのだろうか?いや、そんなことはあるまい。死後の人間がどこの誰かが分からないのと同じように、吉野川の水も海水と混ざり、どこの川の水か分からないくらいに海と同化するのだ。
そんなことを考えていたら、南風5号は高度を下げ、いくつかのトンネルを通り、左側が崖、右側が竹林の中を進み、空が広くなり、雲一つない青空にたどり着いた。

<その時に気が付いた、大歩危の渓谷でみた青い緑いろは、この青空のおかげだ>
と・・・・・・・

平地に出て、一気に空が広がった。土佐山田駅に着き、さらに進むと「後免」と言うおかしな駅を通過し高知駅に着いた。

高知駅で友人のT夫婦が待っていた。T氏は私の先輩で気持ちが素晴らしい男で、もう、40年近くの付き合いだ。そんな訳なので、杓子定規の挨拶は要らない仲だ。まずは、車で桂浜に向かう。

(桂浜の龍馬像) (桂浜)
 
その昔、私が、若かりしときに桂浜にきて龍馬像をみた記憶があるが、今回、再訪したら、記憶に残っていたその時の風景と違っていたのに驚いた。記憶とは、あまり、あてにならないものだ。T氏が予約してくれていた桂浜美食館 神で、かつおのたたき定食を食べる。うまかった。

その後、本日の宿泊地である馬路温泉に向かう。馬路村は交通の便が悪く一緒の過疎のような地域だが、特産品の「ゆず」でムラお越しに成功した地域で、Tと相談し現地を見ようということになったからだ。

馬路村の途中、安芸に三菱の創始者岩崎彌太郎の生家があるとのことで生家を訪ねることにした。門があった。江戸時代の門は家格の象徴だから藩の許可が必要だった。僕は岩崎彌太郎の家は郷士だったことを思い出しその門の形から考え、それほど身分が高くない郷士の家だ・・・・・と、最初は思ったが、しばらくして、違和感を覚えた。なぜなら、彌太郎が生まれた時には、岩崎家は土佐国の地下浪人の家だったことを思い出したからだ。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。もともと、土佐の郷士は、関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部元親の系譜を引く者が多く、新田開発を行うたびに取り立てられてきたといわれている。岩崎家は曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれているから、彌太郎が生まれた当時、家は地下浪人だったので門を構えることは許されなかったはずだ、さらに、驚いたのは、裏には藏が2つたっていたことだ。
地下浪人の家に門と蔵?僕の違和感はさらに広がった。そこで、説明役のボランタリーの女性に聞いたところ、門については分からなかったが、米藏は明治19年に、隣の家財藏は明治20年に建てられたとの事だった。僕は、「やはりそうだ」と前に感じた違和感に納得した。さらに母屋の庭の石は、彌太郎が少年時代に天下雄飛の夢を託して、日本列島を模して自分で作ったものだといわれているが、実際の石はかなり大きく、とても子供が運べるとは思えなった・・・・彌太郎の生家の蔵の建設時期は明治18年に世を去った時期に重なる。
僕は、そこに、「後出しジャンケン」の臭いを感じた。もともと、岩崎彌太郎は、「藩札を新政府が買い上げると」の情報を、事前に、後藤象二郎から得ていて、各藩の藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る「政商」として世にで、後に、三菱商会を創りあげたのである。その経緯を思うと、彌太郎の生家の「後出しジャンケン」にも妙に納得がいった。
「高知にはローソンが多い」ことに気が付き、「どうしてなのか?」と考えていたが、岩崎彌太郎の生家をみて、その答えがわかったような気がした・・・・・・「ローソンは三菱系なのだ」
 
(岩崎彌太郎生家の門) (岩崎彌太郎生家)
 
その後、馬路温泉に向かう。馬路村は農協が中心となり「ゆず」を核としたムラ起こしで有名な村だ。馬路村は、名前のごとく、その昔、馬でしか通れない道しかなかったような辺境な地にあった。道はだんだん細くなり、右側が谷になり渓流が流れ、左側の崖伝い沿う形で進んでいく。こんな奥に人が暮らす集落があるのかと、一瞬、頭をよぎるような地形だ。一台の車しか通れなさそうな道を進む。ようやく集落にでた。確かに道沿いにゆずの加工場、赤い集荷用のコンテナなどあり、確かに、生産活動が行われている臭いがする。
車はさらに集落の奥まで進み、「この奥に温泉があるのか?」と、Tをはじめ車の同乗者が考え始めた時、目のまえに「うまじ温泉」の案内が目に入った。車は右折した。すると右斜め奥に、ログハウスのような建物があった、今夜泊まる馬路温泉だった。
温泉に浸かり、伊予西条の石鎚酒蔵で頂いた純米吟醸「プリンセスミチコ」で、アマゴの塩焼きなどの珍味で宴会をした。

(馬路村温泉) (馬路村温泉)
 
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