2023年1月10日(火)~13日(金) 東京~伊予西条~高知~馬路村~室戸岬~足摺岬

共同通信「めぐみネット」で昨年10月から連載している『農大酵母の酒藏を訪ねて』で、愛媛西条市の「石鎚酒蔵」に取材に行くことになった。
それに合わせ、挿絵を担当するМ画伯と四国一周の旅にでることにしたので、2回にかけてその紀行文を載せることにする。

1月10日(火)
東京8:09発の「のぞみ15号」に乗った。天気は快晴。旅には快晴が良く似合う。新横浜を過ぎ、しばらくすると右手斜め前方に丹沢山系の山並みが浮かび、その斜め後ろに富士山が見えた。富士山の手前には露払いのような箱根の山々、手前の丸い山姿みは金時山だ。富士山は8合目あたりまで白い雪に覆われていた。しばらくはその景色が続いたが、さすがに新幹線は早く、富士山は右斜め前方の位置から、沿線の姿に応じ、「アッ」という間に右手横になり、山並みがダイナミックに大きくなった。
新幹線が進むにつれて、富士山のなだらかな裾野が微妙に変化していくのが分かる、それと同時に、それ以上に驚いたのは8合目あたりまであった雪が5合目くらいまでになり、さらに、小田原を過ぎ、富士川があたりまでくると、富士山の雪は南斜面のせいか3合目あたりまでに減る。
新幹線にはよく乗るのだが、今回のように、時間軸から新幹線を連続的に眺めたことがなかったのか、今回の窓一面に広がっている富士山が刻々と形がかわるとともに、冠の雪も変化していることが確認でき、妙に新たな発見をした気持ちになった。昔、静岡の友人が富士山を見ると、故郷に帰ったような感じがして、妙にホットすると言っていた気持ちがなんとなく分かる気がした。
さらに進むと富士山は右斜め後ろに移り、トンネルを過ぎたら見えなくなった。

岡山駅に着き、13分の乗り換えで「しおかぜ9号」にのり、伊予西条に向かう。列車は、しばらく、田園地帯を通り、やがて、トンネルを過ぎ、瀬戸内に面した児島駅に滑り込む。児島駅のプラットホームの向こうに波一つ見えない瀬戸内海が見えた。ここから列車は瀬戸大橋を渡たるのだ。
左側には瀬戸内海の小島が見える。「しおかぜ9号」はトンネルをぬけると瀬戸大橋に入った。線路の両側には鉄橋が交差しており、その間から観光船らしい舟が橋の下を往来している・・・・平和だ。

 
小さな島に入った。櫃石島(ひついしじま)だ。それを過ぎると、また、鉄橋になる、ごっごっ・・・がたがた・・・じぅー・・・と定期的なリズムを刻みながら列車は進む。ある音が続き、しばらくすると音が変わるのだ。すると、また、新たな島にはいる。左側にサイクリング道路らしいみちが見える。小島の突端には小さな灯台、その先に、海峡の銀座なのか、漁船、観光船、タンカーなどが行きかう。
その船の後ろの白い波紋は美しい、当たり前だが、大きな船ほど波紋がきれいだ。やがて、がーと言う音がして、大きながコンビナートの町に着く。四国についたのだ。造船所があり町並みが続く。
宇多津につく。宇多津は、古代にあった郡名「鵜足郡(うたりぐん)」に由来すると言われている。大きな町だ。ここで、高松から来る列車と合体し松山方面に向かうのだ。合体する列車は「いちづち号」と言う。そう・・四国の有名な石鎚山の名前をとった特急だ。列車は、丸亀、多度津に向かって動きだしたが、わずか、2,3分で丸亀つく。四国にはいり、ここまでは街並みが続いている。昔、小学校で習った瀬戸内工業地帯なのかもしれない。列車は速度をあげ、多度津に向かう。多度津は、古くから海上・陸上交通の要所として栄えた町だ。また、2,3分で多度津に着く。ここは予讃線との交差駅で四国の分去れ道だ。
右側の瀬戸内海に沿って列車は観音寺に向かう。進行方向左側には5、6、・・・・9と低いが面白い形をした山が見える。浅間山のような山、「おむすび」のような三角山・・・・海岸寺奥の院の5重の塔の寺が見えた。右側に瀬戸内海沿いを進む、やがて本日の終着駅の伊予西条に着いた。

石鎚酒蔵で取材を終え5代目の蔵元が予約してくれて伊予西条駅近くの居酒屋「山長」で、しまあじ、かんぱちの刺身、サザエのつぼ焼き、メバルの煮つけで「石鎚」で一杯やり、締めには、サヨリのフライで締めのごはんだったうまかった。特に、メバルの煮つけは薄味で最高だった。
 
1月11日(水)
伊予西条8:18発のJR予讃線「いしづち8号」で高知に向かう、多度津に乗り換え、9時44分発のJR土讃線「南風3号」で高知に向かう。2号車4Dを予約していたが、4Cには先客が座っていた。他の席は空いているのに???と思ったが・・・・・・おまけにその女性は眠っていたので、通路を挟んだ同じ4Bに座った、車掌がきたが隣を指さし、両手を挙げてお手上げのポーズをしたら、車掌はうなずき問題は解決、結局、その女性は終着駅の高知まで眠ったままだった。

土讃線は四国を縦断しているJJRで、琴平を抜けると山間部に入っていった。竹林が多いと感じた。山に囲まれた谷あいには小さな集落と田んぼがあり、その風景を何回か繰り返しながら列車は高度をあげてゆく。四国に限ったことではないが、日本の山間部の谷あいには小さな集落が点在し、そこには、小さな田んぼが、時には「棚だな」が、その昔、集落に住みついた人々の命の糧としてデンと座っている。別の見方をすれば、沢水があり、猫の額ほどの田んぼが存在していれば、そこには、人が住みつく習わしが大昔から続いているのだ。

列車はいくつかのトンネルを通り過ぎた。右側の川沿いにかなりの空間が現れ、さらに、左側の山沿いの線路を進む。空間が一気に開き、「阿波池田」についた。かつて、名将、蔦監督に率いられた「やまびこ打線」で甲子園を沸かせた池田高校がある町だ。「やまびこ打線」の名前のように、山裾が町の際まで迫り、「カキン」と言う打撃音は、周囲の山にこだまする地形である。この駅からJRは徳島方面に分かれている。
駅をでると「南風3号」はトンネルを抜けた。その瞬間、右側に大量の青い色をたたえた川が現れた。吉野川の上流だ。2つほどの壮大な橋が現れ、その川に沿って列車は大歩危に向かう。左側は相変わらずの山だ。トンネルを抜けと右側に流れていた川は左に曲がる。鉄橋を超えた。すると、今度は左側が深い渓谷になり、赤い橋、青い橋が重なり、渓谷が続く。今度は、右側が山になり、列車はその右側の山沿いを進み、少しの空間があると集落になり家が建ち、人々の生活の臭いが谷間から浮かんでくる。しばらくすると、小さな駅を通り過ぎる。すると、また、列車は渓谷に入りトンネルにはいる。トンネルを抜けると、列車は右、左に曲がる。気が付くつと、今度は渓谷が左に見える。深い渓谷だ。車内アナウンスがあり、渓谷は四国三郎の吉野川で、しばらくすると左側に小歩危が見え、鉄橋を過ぎると今度は右側に大歩危が見えるとの事、川の中には巨岩がゴロゴロあり、青い水をたたえた吉野川がくねっている。
岩の形、大きさ、岩に刻まれた割れ目、いや、微妙に縦に何層にも重なるヒダが、それぞれに、微妙に異なり、地層的にみても面白い風景だ。とにかく、川の色が、異常に青い、みどり色だ。そこにかかる白いアーチ型の下の橋梁は赤い色で、誠にコントラストが絶妙だ。

 
大歩危駅を過ぎ、いくつかのトンネルを抜けると、吉野川の谷もやや浅くなり、V字谷の角度が浅くなり、川側の崖に木々がはえ、川の流れも緩やかになってきた。すると河原が広がり、流された石の形状も角が削ずられ、丸みを帯びてくる。さらに、嘘のように川の色が汚らしい黒っぽい茶色に変わっていく。川の流れも水の量も弱くなってくる。大田口を過ぎたあたりのトンネル付近で吉野川はいくつかの支流に別れ、やがて本流も見えなくなっていった。
私は、良くはわからないがGood Luck 四国三郎・・・と呟いた。

列車からはすでに吉野川は見えなくなっていた。おそらく、上流は石鎚山付近の源流に向かい、下流は先程通過した阿波池田の先の平野部にはいり、流れはゆったりと、大らかな大人のように悠々となり、大河のごとく徳島から和歌山湾に流れこんでいくのだ。
次の表現が正しいかはトレースできないが、川もそれ自身が人生と同じように流れているのだ。石鎚山付近の沢の一滴の水滴から流れ出した吉野川は、大歩危、小歩危の渓谷を流れ、終着地の徳島市の河口から和歌山湾へと流れこみ、大海の一滴になるのだ。その時に、吉野川の水は「俺は四国三郎・吉野川の水だ」と自己主張するのだろうか?いや、そんなことはあるまい。死後の人間がどこの誰かが分からないのと同じように、吉野川の水も海水と混ざり、どこの川の水か分からないくらいに海と同化するのだ。
そんなことを考えていたら、南風5号は高度を下げ、いくつかのトンネルを通り、左側が崖、右側が竹林の中を進み、空が広くなり、雲一つない青空にたどり着いた。

<その時に気が付いた、大歩危の渓谷でみた青い緑いろは、この青空のおかげだ>
と・・・・・・・

平地に出て、一気に空が広がった。土佐山田駅に着き、さらに進むと「後免」と言うおかしな駅を通過し高知駅に着いた。

高知駅で友人のT夫婦が待っていた。T氏は私の先輩で気持ちが素晴らしい男で、もう、40年近くの付き合いだ。そんな訳なので、杓子定規の挨拶は要らない仲だ。まずは、車で桂浜に向かう。

 
その昔、私が、若かりしときに桂浜にきて龍馬像をみた記憶があるが、今回、再訪したら、記憶に残っていたその時の風景と違っていたのに驚いた。記憶とは、あまり、あてにならないものだ。T氏が予約してくれていた桂浜美食館 神で、かつおのたたき定食を食べる。うまかった。

その後、本日の宿泊地である馬路温泉に向かう。馬路村は交通の便が悪く一緒の過疎のような地域だが、特産品の「ゆず」でムラお越しに成功した地域で、Tと相談し現地を見ようということになったからだ。

馬路村の途中、安芸に三菱の創始者岩崎彌太郎の生家があるとのことで生家を訪ねることにした。門があった。江戸時代の門は家格の象徴だから藩の許可が必要だった。僕は岩崎彌太郎の家は郷士だったことを思い出しその門の形から考え、それほど身分が高くない郷士の家だ・・・・・と、最初は思ったが、しばらくして、違和感を覚えた。なぜなら、彌太郎が生まれた時には、岩崎家は土佐国の地下浪人の家だったことを思い出したからだ。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。もともと、土佐の郷士は、関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部元親の系譜を引く者が多く、新田開発を行うたびに取り立てられてきたといわれている。岩崎家は曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれているから、彌太郎が生まれた当時、家は地下浪人だったので門を構えることは許されなかったはずだ、さらに、驚いたのは、裏には藏が2つたっていたことだ。
地下浪人の家に門と蔵?僕の違和感はさらに広がった。そこで、説明役のボランタリーの女性に聞いたところ、門については分からなかったが、米藏は明治19年に、隣の家財藏は明治20年に建てられたとの事だった。僕は、「やはりそうだ」と前に感じた違和感に納得した。さらに母屋の庭の石は、彌太郎が少年時代に天下雄飛の夢を託して、日本列島を模して自分で作ったものだといわれているが、実際の石はかなり大きく、とても子供が運べるとは思えなった・・・・彌太郎の生家の蔵の建設時期は明治18年に世を去った時期に重なる。
僕は、そこに、「後出しジャンケン」の臭いを感じた。もともと、岩崎彌太郎は、「藩札を新政府が買い上げると」の情報を、事前に、後藤象二郎から得ていて、各藩の藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る「政商」として世にで、後に、三菱商会を創りあげたのである。その経緯を思うと、彌太郎の生家の「後出しジャンケン」にも妙に納得がいった。
「高知にはローソンが多い」ことに気が付き、「どうしてなのか?」と考えていたが、岩崎彌太郎の生家をみて、その答えがわかったような気がした・・・・・・「ローソンは三菱系なのだ」
 
 
その後、馬路温泉に向かう。馬路村は農協が中心となり「ゆず」を核としたムラ起こしで有名な村だ。馬路村は、名前のごとく、その昔、馬でしか通れない道しかなかったような辺境な地にあった。道はだんだん細くなり、右側が谷になり渓流が流れ、左側の崖伝い沿う形で進んでいく。こんな奥に人が暮らす集落があるのかと、一瞬、頭をよぎるような地形だ。一台の車しか通れなさそうな道を進む。ようやく集落にでた。確かに道沿いにゆずの加工場、赤い集荷用のコンテナなどあり、確かに、生産活動が行われている臭いがする。
車はさらに集落の奥まで進み、「この奥に温泉があるのか?」と、Tをはじめ車の同乗者が考え始めた時、目のまえに「うまじ温泉」の案内が目に入った。車は右折した。すると右斜め奥に、ログハウスのような建物があった、今夜泊まる馬路温泉だった。
温泉に浸かり、伊予西条の石鎚酒蔵で頂いた純米吟醸「プリンセスミチコ」で、アマゴの塩焼きなどの珍味で宴会をした。

 
1月12日(木)
翌日は、朝9時に馬路村農協の専務とアポイントがとれたので、ゆず加工品を中心とした「ムラ起こし」について懇談した。現在、農協の販売額は28億円あるとの事だった。村の特産のゆず加工品の歴史をきいたところ、「昔からこの地では、生産していたゆずの実を搾り、ゆず果汁を大手醸造メーカーに販売をしていたが、昭和50年代の後半、ゆずが大豊作でゆずの果汁は大暴落となった。これを契機に、馬路村農協では、自ら加工・製造・販売する道を選択し、コンサル&デザイナーと連携し、ゆず加工品の通信販売に力を入れることにし、多くのゆず製品を作るようになったのです」と話してくれた。
今では、農協独自のコール―センターをもっていて、ネット、電話、Fax注文に対応しており、最近では化粧品工場を作り研究から製造まで行っている。これらの試みの結果、山村に働く場が広がったとのことだった。
おみやげに頂いたカレンダーには、個性的な馬路村物語が語られ、それに似合う絵が描かれたユニークなものだった。専務に、拙書「錯覚の権力者たちー狙われた農協―」を送ることを約束して農協を後にした。

10:30ころに馬路村を出発し室戸岬経由で高知に戻ることにした。

室戸岬の駐車場に車を止め、外に出ると右側のやや小高いところに銅像があった。龍馬と一緒に近江屋で暗殺された中岡慎太郎の像だった。中岡慎太郎の目は遠く太平洋を睨んでいた。室戸岬は南海トラフのメガスラスト(上位の地層が下位の地層に対して緩い角度でずり上がった断層)の活動で海岸段丘が形成され、岩礁、奇岩が形成されたといわれている。確かに断層が斜めに入った岩礁やタービダイト層と見られる奇岩があちこちにゴロゴロとしている。

―しばらくの間、室戸岬の先端の海岸に座り、太平洋を眺めたー
立ち上がり、フト、後ろの中岡慎太郎の像を見ると、その像が、なぜか人工的な匂いがした。

 
室戸岬から、一路、高知に向かった。T夫婦に高知城まで車で送ってもらい、夕方、追手筋の小料理屋「まえの」で18時に待ち合うことにして、M画伯と高知城を見学することにした。
高知城は昔の面影が残った良い城だった。最初に目に入ったのは石垣の積み方だった。いわゆる、昔の野積み的な感じがする石垣だった。石と石の間がきっちりと接しておらず隙間があるのだ。
同行しているM画伯にその事を言うと、
「石垣の端の積み方には特徴がある」との事だった。
「特徴ですか?」
「そうです、稲田さん、石垣の端の石の長さをよく見てください。積まれている石の長さが、一番下が「長い」事がわかるでしょう。その上の石の長さは「短い」、その上の石は「長い」、また、その上は「短い」と言う具合に、下から長い、短い、長い、短い、長いとなっているでしょう」
と石垣を指差して言ったのでした。
石垣の積まれた石を注意してみてみると、確かに、画伯の指摘するような積み方になっている。
「城の石垣の絵を描くときは、この特徴を頭に入れて書くのです」
「なるほど、そう言うものですか?」
「それとこの高知城は、雨が多いので、水が浸透し流れるように、石と石の間を少し開けているのかもしれません」
と言った。

-私はM画伯の知識に少し驚いた-

 
高知城を見学したあと、市内をブラブラ歩きし、ひろめ市場でお土産を買い、夜の食事場所の追手筋の「まえの」に向かった。

この店は、北海道十勝清水の友人Kが、昨年11月に高知に来たときに食事した処で、「かつおのたたき」「関サバ」が美味いと推薦してくれたのだ。
店は大将と女将と手伝いの女の子がやっている感じの良い店だった。
我々3人は、カウンターに座り、付け出しの「まいご(関東ではナガラミ)」をアテに、ビールで乾杯、その後、高知の地酒で宴会が始まった。肴は「ハガツオのたたき」、「赤なまこの酢の物(私)」、「のれそれの酢の物(M画伯とT先輩)」、「ウツボのから揚げ」、「クルマエビ」、締めは「サバ寿司」だった。
「ハガツオのたたき」は美味だったが、なにかの話で、大将が、「はがつお」は、本当の「かつお」でなく、スズキ目・サバ科のカツオに似た魚で、キツネガツオとも呼ばれていると教えてくれた。また、香川や愛媛に面した瀬戸内では本カツオは取れないので、ソウダカツオを使っている店が多いことを教えてくれた。ソウダガツオも、スズキ目サバ科の魚だそうだ・・・・・ってことは、ハガツオやソウダカツオを本カツオだと思って食べている消費者が圧倒的に多いってことになる。秋になり油の乗った本カツオが一番美味いと大将が言っていたので、次回、何かの調査で、再度、高知に本カツオを食べに来なければと思った。Kが推薦しただけあって非常に美味かった。

1月13日(金)
9:00、ホテルに迎えにきたT夫妻と出発、一路、足摺岬に向かった。途中四万十の国道沿いの「田子作」といううどんやで昼食、注文したのは「田子作うどん」、「おでん」、それと無料の「ゆでたまご」だった。「田子作うどん」は、お店の母さんが作った人参、キャベツなどの野菜を煮込んだ「うどん」、「おでん」は、厚揚げと大根とこんにゃくを串刺しにしたかつおだし風の、どちらも出汁がでていて、まさに田舎の味で、美味しかった。また、店を出したのが40年以上前だと語る母さんとの会話が「旅のオアシス」そのものだった。

-旅には、田舎のお店がよく似合う-

「足摺岬には強風が良く似合う」と僕は勝手に思っている。今日は、雨は降ってはいないが、強風が頬をたたいていた。まさに、僕の想定した「足摺岬」そのものだった。雲も霧もなかったため、眺望は最高だった。
-田宮虎彦の「足摺岬」を思い出した-
主人公の大学生が自殺しようと足摺岬へやってくるが、偶然、泊まった旅館でお遍路の老人や薬売りの商人とめぐり会い、自殺を踏みとどまると言う話だ。
僕の頭にはその残像が強く残っていたから、「足摺岬には強風が良く似合う」ってことになったらしい。亜熱帯の散策ルートを灯台まで歩き、小さな展望台で前面に開かれた太平洋を眺めた。
 
 
その後、足摺岬から本日の宿泊先である宿毛に向かった。宿は「宿毛リゾートヤシの湯」だ。部屋から宿毛湾が良く見えた。
夕食は、伊予西条「石鎚酒藏」で、お土産に頂いたフランスKura Masterで金賞を受賞した純米大吟醸を持ち込みの宴会だ。今晩がT夫妻との最後の宴なので話がはずむ。
「高知城には板垣退助、足摺岬にはジョン万次郎の銅像があった。高知県民は銅像が好きなのかな」と僕が言うと、
「そういえば足摺岬には16人の銅像の案内板あった」とT氏。
「その案内板の写真を取った」とM氏。
その写真を見ながら、本州人の4人は、高知県について話出した。
その話のなかでの最高傑作は、高知駅前にある銅像、坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎の銅像の話だった。
T夫妻によれば、この3人の銅像はハリボテで台風がくると壊れしまう恐れがあるので、台風の度に、8万円をかけて取り外し倉庫に運ぶそうだ。
ある時、友人が高知を訪ねた際に、駅前の銅像がないのでガッカリしたとのことだっったそうな。
・・・・・その友人が訪ねた時期は、ちょうど台風の時期で、たまたま、ハリボテ3人の偉人像は、倉庫の中だったとの話でした。
高知には面白い話が多いのです。
 
 
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