2020年の晩秋だった。奈良に4泊する機会があった。その時のことは、「猿沢の池」と「明日香の里」のタイトルでこのコラムに書いた。今回は、その時に回った浄瑠璃寺と岩船寺に訪れた時のことをまとめておこう。

その日は、宿泊先のホテルからJR奈良駅西口まで歩き、西口から10時前の加茂駅行きのバスにのり、途中の浄瑠璃寺口で下車し浄瑠璃寺に向かった。なぜ、浄瑠璃寺に行ったのか言えば、1943年の春に作家の堀辰雄が『浄瑠璃寺の春』と言うエッセーを書いていたからだ。当時、堀は、奈良の東大寺あたりから2時間、緩やかな山道の中を歩いてきたと記されている。堀は、
「―まさかこんな田園風景のまっただ中に、有名な古寺が―はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思へなかった」と書き、疲れのせいか、一瞬、浄瑠璃寺の山門に気づかずに通りすぎたらしいと記している。

―80年前の風景は、今とは全く異なっていたに違いないー

バスをおりると目の前に、『浄瑠璃寺→』の青の案内板があり、僕は、それに従って、やや登りの路を山門に向かった。浄瑠璃とは、広辞苑によると清浄、透明な瑠璃(青色の宝石)を意味する仏語である。
 
浄瑠璃寺庭園 岩船寺三重塔
   
境内は浄土式庭園を形成している。浄土式庭園は仏教の浄土思想の影響を受けたもので、極楽浄土の世界を再現している。浄瑠璃寺の庭園は、中心に大きな池があり、中央には小島、その島には弁才天を祀る祠がある。また、池の東岸には薬師如来を安置する三重塔、西岸には阿弥陀如来を安置する本堂が位置している。薬師如来は東方浄土の救世主、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主であることから、東の「此岸」(現世)と西の「彼岸」(来世)が池を隔てて存在する構図になっている。

ゆっくりと本堂の廊下に座り、しばらく、池の向こうの三重塔を眺めていた。人がいなかったせいか、紅葉の中に浮かんでいる三重塔と池の中の小島が微妙に重なり、ふと目を瞑ると、本堂が現世で東側があの世のような錯覚に陥った。高台にある三重塔を外からじっくり眺め、山門を出た。

山門をでると、右側に『あ志び乃』という店があった。堀の『浄瑠璃の春』というエッセーでは、浄瑠璃寺の白い馬酔木について詳しく書いてあったので、この店の名前はこの花にちなんだのかも知れないと思い、一瞬、店の名前の由来を確かめようと思ったが、逆に、本当のことを知ると、「彼岸」から「現世」にワープしてしまいそうに思い、万葉人たちの馬酔木へのホンノリした気持ちのままで帰ろうと決めた。

この地は、京都府に即しているが、地理的には奈良に近く当尾の里と呼ばれ、浄瑠璃寺からこれから向かう岩船寺にかけて、当尾石仏群と呼ばれる鎌倉時代の石仏、石塔などが多く点在している地域でもある。僕は、この石仏群の存在が、堀辰雄が浄瑠璃寺に惹かれたのだと当初は考えていた。
堀は『大和路・信濃路』のエッセーの冒頭で、堀の山荘がある信濃追分の泉洞寺の「歯痛地蔵」について、寺の住職の「割に最近になってから、歯を病む子をつれて、ムラの年寄どもがよく拝みに来る」との話を紹介し、「ぢいっと小さな頭を傾げているだろううその無心そうな像を、ふいと目のうちに蘇らせた。いつのまにこの像が自分にとって親しみのあるものになってしまったのだろう・・・・」と述べていたからだ。しかし、堀の『浄瑠璃寺の春』には当尾石仏群についての記事はない。

浄瑠璃寺から岩船寺かけて丘陵の間を縫うように続いている古道には、自然石に刻まれた「磨崖仏」が多く遺されているとの情報があったので、浄瑠璃寺の門を出たところに地元のおばさんらしき人がいたので、
「岩船寺はこっちの方向ですね」
と聞いたら、
「そうです、少し進んだら右に曲がってください」
と丁寧に教えてくれた。

おばさんの指示通りに進むと、右側に磨崖仏のようなものがあったので、近寄ってみると鎌倉時代の藪中三尊磨崖仏だった。中央に地蔵と十一面観音、少し離れた左に阿弥陀を配置したものだった。この磨崖仏を見て更に進むと、道はハイキングコースのようになっており、左側に南北朝時代に彫られた阿弥陀・地蔵磨崖仏があった。阿弥陀如来坐像は衣のしわが鮮明にみえ、横の地蔵菩薩立像は右手に杖、左手に宝珠を持つ姿が彫られている。さらに進むと大きな岩を屋根のひさしにした巨石に阿弥陀三尊像が刻まれていた。この仏さまは、丸い輪郭の顔と丸い眉と細い目の表情から優しく微笑んでいるように見えるので「わらい仏」とも呼ばれている。田舎道を上ったり下りたりしながら四面地蔵、不動明王磨崖仏を見て岩船寺に行った。
 
     
藪中三尊磨崖仏  阿弥陀・地蔵磨崖仏   わらい仏
 
岩船寺にも本堂、三重塔、池があるが、浄瑠璃寺の庭園のように、東(現世)に三重塔、西に本堂(来世)が配置されておらず、浄土式庭園ではないと感じた。この地は奈良時代に栄えた南都仏教の影響を強く受けており、興福寺や東大寺にいた僧侶の隠棲の地だったらしい。北側に位置している3重塔の裏側は傾斜地の林になっており、当時は、隠遁の地にふさわしい深山だったことが想像できた。
本堂に入り、本尊の阿弥陀如来像を拝んだ。悟りを開いた阿弥陀像らしく静かな人を包み込む表情をしていたが、それよりも印象に残ったのは本尊の横にある象の普賢菩薩騎象像であった。なぜ、象の背に菩薩像なのかその時はわからなかったが、後で調べた所、法華経の中にある六本の牙を持つ白象(六牙の白象)に乗る普賢菩薩で、法華経を信じる者を守るといわれている。

帰りは、岩船寺の前から奈良駅行きのバスに乗ったが、昼飯を食べてなかったのでお腹がすいていることに気が付いた。近鉄奈良駅で途中下車し、駅の近くの回転寿司に入り燗酒でいっぱいやった。何気なしに携帯の地図をみたら、お店の前の道を北に下れば3条通りに出ることに気が付いた。その時、2日前に猿沢の池に行ったときに3条通りに小体な寿司屋があったことを思い出した。

この原稿を書いているときに、その店をネットで調べてみたら、その店は60年以上やっている老舗の寿司屋だった。

《この店のカウンターに座り寿司をつまんでいる自分の姿を想像した》

―きっと、奈良にまつわる面白い話が聞けたに違いないー
と思うと、少し、がっかりした。
 
 
 
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