橘寺(遠景)
 
仕事場で机の中とメモを整理していたら、高松塚古墳と石舞台古墳のチケットが出てきた。そこで、メモと記憶をもとに明日香の里についてまとめることにした。
明日香に行ったのは、確か、去年の秋だったと思う。その日、近鉄奈良から飛鳥に行き、高松塚古墳、石舞台古墳あたりを回った。当日、飛鳥駅で、高松塚古墳→橘寺→石舞台古墳→岡寺を周り、飛鳥駅に戻るハイキングコースの地図を入手したので、この地図に従い古墳を回ることにした。

駅を出て右に曲がり、舗装されている道路を高松塚古墳に向かった。

天気は快晴、青空が広がっていた。高松塚古墳は7世紀末から8世紀初に作られ壁画が有名である。駐車場の手前を右に折れ、田舎道を下り、緩やかな道を上りながら進むと左側に新しい建物が見えた。壁画館である。壁画館では、人物像、四方四神および天空図をみた。

天空図は、高句麗から伝来した原図を用いた可能性があるとされ、飛鳥美人で有名な女子群像は、赤、緑、黄色などの明るい彩色が施された服を着ており、やや下膨れなおっとりとした表情が特徴である。身につけている服装が高句麗古墳の壁画の婦人像の服装と似ていると指摘され、3人程は入れる大きな傘を持ち、帽子らしき物を被った男子偶像は、古い韓国ドラマの官僚のような感じがする。また、東西南北には、古代中国でよく見られる四神(青龍、白虎、朱雀、玄武:朱雀は盗掘のためない)が描かれている。このことから高松塚古墳は、唐や高句麗の影響をうけていると考えられ、埋葬者は天武天皇の草壁皇子や朝鮮の王族だとの説がある。

<天武天皇の父親は舒明天皇であり、舒明天皇の皇后(皇極天皇)が曽我馬子の娘であり、馬子の曽祖父は高麗と言う名前で渡来人だという説があるので、高松塚古墳は、何らかの形で、中国と朝鮮と関係があるらしい>

高松塚古墳の裏手の道から橘寺に向かった。のんびりとした果樹園の丘陵地帯を抜け、両側に古い白壁の家が並んでいる情緒ある田舎道を進んだ。

<その白壁の家からピアノ曲が流れてきた。注意して聞いていると、その曲は、「知らず知らず歩いてきた細く長いこの道・・・」のメロディーだった。一瞬、私は、古墳時代と美空ひばりはミスマッチだなと思ったが、暫くすると、逆に、その曲が胸にしみこんでくる奇妙な感覚に襲われていた>

やがて、両側が水田の真っ直ぐな田んぼ道に出た。その田んぼ道がぶつかった先に橘寺の門が見えた。門の右側に本堂が見え、その前の道に3本の大きな木が立っていた。
聖徳太子はこの橘寺で誕生し、境内には太子の愛馬の青銅色の『黒の駒』像が立っており、橘寺は聖徳太子建立七大寺の一つとされている。橘寺の創建年代は、寺の資料によると606年と記されている。

橘寺を出て左に折れ、寺の横の道を石舞台古墳に向かった。古い町並みの細い路地を進み、小さな水田地帯の農道を抜け、右側が竹林で左側に飛鳥川が流れている小道を抜け、橋を渡り、石舞台古墳に着いた。石舞台古墳は、土を盛りあげた墳丘であったが、現在は、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。

石舞台古墳から桜井明日香吉野線の道路を岡寺に向かった。頭上には真っ青な空にデンと座った太陽が、晩秋とは思えないジリジリした強烈な光を舗装道路に照らしていた。私は、大汗をかいてやっとの思いで高台にある岡寺に着いた。岡寺は草壁王子が住んでいた岡の宮が663年に仏教道場として始まったと言われている。

<私は、本堂の前の休憩所のベンチに腰かけ、途中のコンビニで買ったサンドウィッチを食べながら、古墳時代について考えていた>

古墳時代は、3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までを指し、特に、3世紀半ば過ぎから6世紀末までの前方後円墳が有名である。この時代に、前方後円墳は、北は東北地方から南は九州地方まで全国に200個以上も作られていた。この事実は、6世紀末ころまでは、それぞれの王が地域を支配しており、日本には統一された国家がなかったことを示している。しかし、今回、訪ねた高松塚、石舞台、橘寺、岡寺の時代になると、全国の小国が大和朝廷に統一されたと考えられている。この仮説の裏付けの1つが、7世紀以降、全国で、前方後円墳が作られなかったことなのである。

この時代については、聖徳太子の実在性への疑問、聖徳太子の曽我入鹿説などを唱える歴史家もいる。これらの歴史家の中には、17条の憲法、律令国家への青写真、遣隋使の派遣などの施策は聖徳太子ではなく、実は、曽我氏がやった業績であると解釈している人もいる。

私は、今回、訪れた場所を年代順に手帳に書いてみた。

 <橘寺(606年)→石舞台古墳(7世紀初)→岡寺(663年)→高松塚古墳(8世紀初)>

こう書いてみると、今回、訪れた古墳や寺が建てられた時期は、確かに、前方後円墳の小王国時代が終わり、大和朝廷を中心とした中央集権国家が動き出した時代である。また、渡来人を含めた貴族達が、「崇仏派」の曽我氏と「拝仏派」の物部氏に分かれ、権力闘争を繰り返していた時代にあてはまる。さらに、この時期は、日本の正史である古事記(712年)と日本書紀(720年)が編纂される前にあたる。

―『歴史は権力者によって作られ、真実は庶民の中にある』―

私は、フランスのアナール学派の言葉を思い出した。おそらく、日本のこの時代の真実は、何も語らず何も残さなかった庶民の中にあり、その真実は、日本人の永遠のロマンなのである。

高松塚古墳、石舞台古墳、橘寺、岡寺との出会いは、私を『謎の古代史の時代』にタイムスリップさせたようである。
 
  石舞台古墳(筆者撮影)
 
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