9月に学生時代の友人と信州のドライブ旅行に行った。軽井沢駅でレンタカーを借りて、追分にある僕の山荘を拠点とする2泊3日の旅だった。
 
まずは、小諸の懐古園の「草笛」で蕎麦を食べ上田城に向かった。上田城は1583年真田昌幸によって築城され、1585年の第1次上田合戦と1600年の第2次上田合戦で2度にわたり徳川の大軍を退けたことで知られている。
駐車場から降りると目の前が野球場になっていた。そこに掲げられている案内版を見ると、この野球場は、その昔、広い堀になっていたらしい。今は、その面影はないが、古い地図をみると確かに外堀らしい。しばらく歩き、右の道をとると内堀があった。この内堀をみると、昔の城の跡がかなりイメージできた。さらに左に道なりに行くと、真田神社があり、その先が上田城東虎口櫓門だった。
 
<その門を潜ると有名な真田石がある>
 
この真田石は、高さ約2.5m、幅約3mの大石で、真田信之が父昌幸の形見として持って行こうとしたが動かなかった言い伝えが残っている。
  
上田城東虎口櫓門
  
フト、突然、友人のKが
「稲田、この石は、誰が運んだのだろ?」
と言った。
「そりゃ、K、百姓じゃないのか」
「そうだよな。俺も百姓が駆り出されたと思うよ」
とKが頷いた。
 
<確かにKの言うとおりだと思った>
 
その後、二の丸の跡や上田市立博物館を見たが当時の面影は想像するのが難しかった。
 
その日は翌日行く予定の松代・長野方面の峠道を確認し、小諸の「アグリの湯」で一風呂を浴び山荘に向かった。
 
翌日は快晴だった。カップスープとサンドウィッチとカフェの簡単な朝食を済ませ、浅間サンラインを経由して、長野・真田線の地蔵峠を抜けて松代象山地下壕に向かった。この地下壕は、第2次世界大戦末期に、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営等をこの地に移すという計画のもとに突貫工事で掘られた地下壕である。
   
車は小さな川の横の細い土手道を走り、地下壕の入り口に着いた。入り口は細い道だったので、まず、助手席に乗っていた僕が確認のために降りた。
 
残念なことに、コロナのために見学施設は閉鎖中だった。施設の入り口から離れる時に、空中に垂直に壁のようにたっている象山の岩盤の姿が目に入った。と、同時に、僕の目には、この岩山を乏しい食糧と旧式な工法で、人海戦術を唯一の頼みとする軍部に強制的に集められた疲れ切った人々の汚れた顔が浮かんだ。
 
Kが、
<この壕も、普通の人々が掘ったのか、いや掘らされたのか?>
と呟いた。
 
その後、二人は善光寺に向かった。Kが一度も善光寺に行ったことがなかったからだ。善光寺は特定の宗旨・宗派のグループに所属していない仏教寺院である。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来である。レンタカーを駐車場にいれ、400mは続くダラダラした石畳の坂道の先に善光寺の本堂があった。
本堂の前に立った時に善光寺の巨大さに圧倒されたことが強く印象に残った。内陣券を買い本堂を一回りしたが、これと言って記憶に残ることはなかった。
 
参道にある蕎麦屋で昼食を食べた時だった。
ふと、Kが、
<善光寺の本堂の木材も、多くの百姓が駆り出されたんだよな?きっと>
と呟いた。
 
最後に、国道沿いの川中島の古戦場を訪れた。八幡社で神妙に手を合わせ、「甲陽軍鑑」で有名な馬に乗った謙信の剣を軍配で防いでいる信玄の銅像と三太刀七太刀之跡乃碑(謙信が三度斬りつけた刀を信玄が軍配で受けた結果、七つの傷が残っていたと言われている)をみた。この八幡社は、合戦の時に信玄が本陣を敷いた陣地だと言われている。周りを注意深く見ると、低い土塁のあとがあるので、確かに、信玄本陣を示す桝形陣形跡だと思えた。
 
古戦場を出る時に八幡社の端にたっていた石碑があったので読んで見た。この碑には、この戦いで死んだ何千もの兵士たちを弔うために、合戦後、暫くして武田の家臣が建てたと記されていた。
 
<Kと僕は、この石碑を見て、なぜかホッとした>
 
その日は、追分山荘の近くの馴染みの「春告げ鳥」と言うダインニグバーに行く予定だったが、生憎、その店が休みだったので、近くの小料理屋「遊膳」に入った。

「今回行った上田城、善光寺、川中島古戦場、そして中には入れなかった松代象山地下壕は、いろいろ考えさせられたな、K?」
「どこも、名もない百姓や庶民が、領主や軍部や大将に駆り出され、一言も語らず歴史の中で死んで行ったってことか?」
「そうだよ。俺たちも年をとったってことだな。昔、若い時に善光寺に行ったときには、そんな事は、まったく考えなかったからな」
「年を取るってことは、そういうことかもしれんな?」
「そんなものかもしれんな。どの時代になっても、庶民は時の権力者に使われるだけってことさ。その最悪が戦争ってことか?」
「まあな、そうならんことを祈って、今日は、久しぶりにゆっくりやろうや」

<Kと俺は、地元の「佐久の花」の純米酒の杯を重ねた>
 
信州の秋の夜はヒッソリと俺たちの横に忍び寄ってきた。
 
謙信と信玄像
 
春告げ鳥(軽井沢町追分)
 
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