仕事を早めに切り上げ、Dewar'Sをやりながら、事務所にある小さなコンパクトCDで、カール・ベーム&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のシューベルトの未完成のCDを聞いている。

<2杯目のロックを飲み干した。ホンノリと酔いが回った・・・・・未完成の主題のターラーラー・ラララララララ>
が頭の中で聞こえている。

僕は、手元にあったショルティ&シカゴ交響楽団のチャイコフスキーの悲愴に曲を変えた。出だしの音がなっているのか分からないうちに、あの有名な地をはうような暗い旋律が流れ出し、そのうちに・・・・・・、

<ダンダンダーンダン・・ダダダダダー・・・の有名な主題が流れ、やがて、メロディがロシアの雪の大地を駆け上がり、クライマックスの泣き出すようなバイオリンの旋律が流れた>

思えば、僕が高校生の頃、僕はかっこをつけて、クラシックを聴こうと思いレコード店に行った。作曲家も曲もほとんど知らなかったが、チャイコフスキーの交響曲第5番を買った。演奏はレニングラード・フィルで、指揮者はムラヴィンスキーだった。この5番は第1楽章の暗い運命のテーマがモチーフで、このテーマが、繰り返し第4楽章までついてきて、人生は運命から逃れられないような感じがしたものだ。

なぜ、僕がチャイコフスキーのレコードを買ったかと言えば、おそらく、クラシックが好きな友人からチャイコフスキ-の名前だけは聞いていたからだろう。
その友人は、「悲愴はよい曲だ」といっていたので、僕は、しばらくの間、僕が買った5番を悲愴だと思っていた。

<ある時、悲愴は交響曲6番で、僕が聴いていた5番は違った交響曲だとはじめて知った>

僕は6番の悲愴も聞いてみた。若い僕には、そのリズムとメロディが「心」の中にしみこむような切ない、また、厚い雪の中を、かき分け、白い花がゆっくりと芽を出していく感じがしたことを覚えている。その後、4番のカラヤン&ベルリンフィルのレコードを買った。

<その曲も、運命のファンファーレが全曲の主要旋律となっているダイナミックな曲で、僕はチャイコフスキーが好きになった>

そんな時、クラシックの専門雑誌で、えらい評論家が、クラシックでチャイコフスキーが好きな奴はガキみたいなことを言っていた。その理由は、チャイコフスキーのメロディーは、素人受けするメリハリがはっきりしているからだという。彼に言わせれば、ベートーベンと比べれば、人生に対する深みが違うなんて評論していた。

それ以来、僕は、その偉い評論家先生の言葉が「トラウマ」のように残ってしまい、その後、しばらくの間は、「チャイコフスキーが好きなんて通じゃないないと言う妙な偏見」が根づいてしまった。

ところが、歳をとってから、音楽だけではなく、あらゆるものは、本人が良いと思えば、他人が何と言おうと良いのではないかと考えるようになった。知ったかぶりの評論家や政治家や官僚やお偉いさんが「これが正解だ」と言っても、人間が暮らす社会においては、正解が1つとは限らないことに気が付いたからだ。

もしも、周りの社会や人間が常識だとか正しいとか言っている価値観が行動基準だとしたら、その基準に合わせるために、毎日、社会や他人の目を意識し、その人たちに気に入られようと行動するのは、自分の人生を他人の価値観(物差し)に合わせているようなもので、それは、自分ではなくて、他人の価値観のパンツをはかされたサルみたいなものではないかと気が付いたのだ。

僕のこの曲がった物の見方は、若い時に、バカな音楽評論家が、チャイコフキーの音楽は、素人受けがする単純なメロディーで、チャイコフスキーが好きな奴はクラシックが何たるものか分からない奴だといっていたことへの無意識的な反発から来たのかもしれない。

<そんなことを考えながら4杯目のロックを飲んでいる>

4枚目の酔いは、今度は、若い時に読んだJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」という小説を思いださせていた。この小説は、何年か前に村上春樹の訳で話題になったので覚えている人も多いだろう。

僕が読んだのは白水社の野崎孝の訳だったと思う。この本のテーマである、
<大人はみんなインチキだという主人公のホールデン・コールフィールドの言葉>
が、その後の僕の心の根底に深く根づいている。

この2つの出来事が、僕の人間のとらえ方、つまり、人間には、どっちが偉く、どっちが良いとか悪いとかはなく、地位や名誉やカネには関係なく、日々生きるために、黙々と働いている人たちが人間の主人公なのだという見方に繋がっているのだ。

逆に言えば、偉い政治家や役人や金持ちほど、
<自分は多くの人間から選ばれた才能豊かな人間なのだ>
と言う妙な感覚を持っている鼻持ちならない人間なのかも知れない。

 
 
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