岐阜での仕事が早く終わったので、岐阜駅から新大阪行の新幹線に飛び乗った。テレビで高野山の番組を見たのを思い出し、急遽、高野山へ行こうと思い立ったからである。高野山へは、新大阪から地下鉄御堂筋線で難波に行き、難波から南海電車で行けるからだ。
翌朝、新大阪のホテルを早めにでて、南海難波駅を7:48の急行で極楽橋まで行き、そこで高野山ケーブルに乗り換え、高野山に向かった。高野山ケーブルは、急勾配の坂をゆっくりと上っていく。

高野山は、平安時代の816年に嵯峨天皇から空海に下賜され、真言密教の修禅の道場として開かれた日本仏教における聖地の1つである。「真言密教」の本質は三蜜成仏にある。三蜜とは、仏の身・口・意、すなわ、身に印契(手指を組んで仏の形を作る)を結び、口に真言を誦し、意に三昧(精神を集中し雑念を払うこと)することである。三蜜は、真言密教の本尊である大日如来の行為であり、その悟りの最終的な形が「即身成仏」と「曼荼羅」である。「即身成仏」とは、生きた人間が現世に存在しながら大日如来と結合して仏となることであり、「曼荼羅」とは三蜜成仏を象徴的に表現したものである。「曼荼羅」には、大日系の胎蔵曼荼羅と金剛頂系の金剛界曼荼羅の2系統があり、もともとは、経典に示されたもので、その理想の形が、大日如来を中心に描いた「曼荼羅図」である。

<私はケーブルカーに乗りながら、『1200年も前に海抜900メートルのこんな急峻な山の中に、どのようにして一大仏都を建設したのだろうか』などと仏都を建設した当時の人々の苦労を想像していた>
 
高野山駅からはバスに乗り換え一の橋口で下車し奥の院に向かった。奥の院弘法大師御廟へと続く参道は樹齢500年の杉の木に囲まれていた。雨上がりのためか、人のいない参道の空気は凛と締まっており、その凛とした空気が、スッーと肺の中に流れ込み、心がしっとりと落ち着いたような気がした。
高野山では宗派の隔たりなく、鎌倉時代ころから墓石群が形成されるようになったらしい。御廟へ通じる参道沿いには、曽我兄弟から始まり平敦盛、武田信玄、伊達政宗、上杉謙信、石田三成、明智光秀、豊臣秀吉、織田信長など名だたる戦国大名の五輪搭がある。

五輪塔の塔とは、本来は釈迦の舎利(骨)を安置する墓から生まれたもので、その昔、大陸から伝えられ、日本独自の変遷を重ねて現在に繋がっている。塔は、梵語ではストゥーパと言い、それを漢字に当てはめたものが、現在、多くの墓で見られる塔婆である。五輪塔は、5つの石からなっており、下から方形=地、円形=水、三角形=火、半月=風、宝珠形=空よって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素と考えられた5大要素を象徴しており、密教の思想の影響が強いと言われている。

―なぜ、多くの戦国武将が五輪塔を高野山に寄進したのか?―

空海の言う真言密教の本質は前述した三蜜である。しかし、真言宗を修行するのは衆生(民衆)であるので、衆生が、身に印契を結び、口に真言を誦し、意に三昧してもその行為は三業であり、三蜜ではなく仏にはなれないのである。そこで、衆生の代わりに、大日如来が祈祷によって三蜜をなすことにより「生きている人間が現世に存在しながら大日如来と結合して仏となることできる」と説いたのである。

おそらく、多くの戦国武将たちは、現世で多くのライバル武将を滅ぼし、このままでは、極楽浄土にはいけないと考え、宗派を問わない高野山へ五輪塔を寄進し、大日如来の他力により極楽浄土の世界に行けることを祈ったのであろう。参道沿いの周りには、塔とは呼べないような石を積んだ粗末な名もない庶民の五輪塔も沢山ある。

―当時の人々は、「極楽浄土」に行きたいとの信念だけで五輪塔を寄進したのだろうか?-

と私は参道を歩きながら、再度、考えていた。どうもシックリしないのだ。

その時、あることに気が付いた。17世紀のヨーロッパで、ペストが流行した時に、医師は感染を避けるために、烏の仮面をつけていたことを思い出したからである。今の時代なら、人々は、ペストはペスト菌と言う菌が犯人であることを知っており、烏の仮面がペストの感染防止になるなどとは誰一人として信じていない。

―高野山の五輪塔も、烏の仮面と同じような時代的意味合いがあったのではないかー

つまり、『大日如来と結合して仏になれば、衆生は「極楽浄土」にいける』との信仰は、宗教的教義であり、エビデンス的な根拠はなかったはずだ。だからこそ、当時の戦国大名や衆生は、「空海の傍で永眠すれば極楽浄土へ行ける」と言う仮面(密教)を信じることが必要であり、その「証」が高野山へ五輪塔を寄進することだったのではないか。

今、世界中でパンデミックになっているコロナの原因はウィルスだと分かっているから、現代の人々は、コロナから身を守るため、烏の仮面をつけたり五輪塔を寄進したりはしないのだ。逆の言い方をすれば、現代の人々は、戦国時代の人々のように、罪や欲や嘘に対する恐れが薄くなり、その結果、「人間の傲慢さ」が表面にでたり、「自然への敬い」の心が無くなってしまったのかもしれない。

―私は、こんなことを考えながら「みろく石」の祠に静かに手を合わせたー

フト、参道を振り返ると、黄色の僧衣をまとった何人かの僧侶に囲まれた2名の修行僧が、空海が入定している大師御廟に食事を運んでいた。

私は、なぜか、少しホッとした。

 
高野山
 
 
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