夏の終わりに唐津線に乗り佐賀から唐津に向かった。岩屋駅を過ぎたあたりから、窓の外には、稲刈り前の黄金色の稲穂と緑色の大豆の田圃が広がった。田圃の向こうには、秋のゆるやかな太陽の光を受けた巌木川が流れ、その光の先には低い山なみが浮かんでいた。この風景は日本の原点であり、多くの日本人は、この景色を見て、故郷に帰ったような気持ちになる。

<急に視界がひらけ、窓の外を流れている巌木川が松浦川と合流し急に広くなった>

電車は、まもなく、唐津駅に着いた。階段をあがり改札口を出たところに友人のIが待っていた。1週間前に「佐賀で仕事があり、その後、唐津に回る予定だけど、時間があれば、昼飯でもどうか」と連絡したら、「ok」となり、一緒にランチをすることになったのである。

唐津は、その昔、現在の釜山の近くにあった加羅と関係が深かったらしい。地図を見ると、唐津は、壱岐、対馬、朝鮮と小舟で往来ができそうな位置にあり、近畿にある大和朝廷よりも交流が深かったと想像できる。

Iの案内で唐津湾を一望できる鏡山に登った。この鏡山には一つの伝説が残っている。朝廷の命令で朝鮮半島の任那・百済に派遣された大伴狭手彦(おおとものさでひこ)とこの地の長者の娘「佐用姫」との間の悲恋伝説である。その切ない別れが、
―海原の沖行く船を帰れとか、領巾振らしけむ松浦佐用比売―
(次第に遠ざかり小さくなっていく軍船に向かい、鏡山へ駆け登った佐用姫は、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死になって振った)
の句となって万葉集に残っている。
当時、大和朝廷は朝鮮半島への野望を持っていたらしく、新羅征服のための遠征や国防のために、多くの庶民が兵や防人としてこの地に派遣されていたらしい。万葉集には「防人の歌」として、
―父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつるー
(父母が自分の頭をなでながら「無事に帰れ」と言った言葉が忘れられない)
など、防人に駆り出された息子をいとおしむ父母の情感を歌ったものもある。

<どの時代も、権力を握った人間は、本源的に、領土拡大などの欲望を根絶できず、庶民の命や心を犠牲にしているのだ>

鏡山から唐津城を見学し、友人の行きつけの地元の割烹旅館に行った。テーブルには、サバの刺身が並べられていた。このサバは、九州大学と唐津市が完全養殖に成功した「Qサバ」で、「呼子のイカ」に続く唐津のブランドサバなのだ。唐津湾の生簀から活きたまま運ばれ調理されるので、サバの身がコリコリしていて旨かった。残った刺身は、九州名物ゴマサバと天麩羅にしてもらい、さらに、あわび、イカ、タイ、クジラ酢味噌、煮物・・・・佐賀牛などが次から次へと出てきて、これらを肴に日本酒の冷酒をグビリ・グビリとやった。

「唐津は、同じ佐賀でも佐賀市とは雰囲気がまるで違うな?」
「そうですよ。もともと、佐賀市は武士の町で、唐津は商人の町なのです。武士と商人では文化が違うのです」

Iの言うとおりだと思った。佐賀藩は、藩祖鍋島直茂から始まり、幕末の名君、直正の明治維新まで鍋島家が支配し、葉隠れ、藩校など成熟した武家文化とそれを維持する真面目な体質だったと言われている。これに対して、唐津藩は、秀吉の時代に大名として取り立てられた尾張の寺沢広高以降、大久保、松平、土井、水野、小笠原と代々の領主が、コロコロと代わった土地柄であった。そのせいか、唐津では、自由闊達な町民文化が花開き、寛文年間に生まれた「唐津くんち」は、領主が代わっても、形をかえながら、現代まで続いているのだ。

「そういえば、さっき唐津城に行く途中に、W大の中高一貫校があったろ。君の説明によれば、全校生徒の98%が県外の子供で、佐賀県人は2%だったよな」
「ハイ、そうです。都会の親たちは、子供を提携校に通わせるために、市内に中古マンションを購入し、母親が一緒に暮らしているみたいです」
「いつの時代も、親たちは子供に望みを抱くらしいな」
「でも、稲田さん、親の希望通りに子供が有名大学、有名企業に就職できれば良いですが、親の希望通りにならない場合も多いのじゃないですか?」
「確かにな、俺の知り合いでも、親が敷いたレールに乗れない子供のほうが多いらしい」
「田舎の子供達は、都会の子供達と比べて、まだ、少し、ノンビリしているみたいですよ」
「そうか、それは良いな。親の言う通りに優秀でT大に進んでも、その連中が、必ずしも幸せな人生を送るとは限らないからな。人生と言う長い物差しで見れば、自分の身の丈にあった、ソコソコ暮らせる人生が、案外、幸せなのかもな」
「なるほど・・人生などは、ケ・セラーセラー、ナルヨウニナルサ・・・ってことですかね」
「まあ、そう言うことだな。それにしても、ここの料理は美味いな」
・・・・・・このあたりで話を止めとけばよかったのだが・・・・・・

「女将さん、女将さんの孫もW大の提携校に入れたら?」
と、私は横に座っている女将さんに言ったのだった。

<この話題をきっかけに、座敷は井戸端会議の様相を呈してきた>

「娘夫婦が仕事でアメリカに行っていたので、孫を外国の大学に進学させたいと言っているのよ。稲田さんどう思います?」
「いいんじゃないか、これからは国際化の時代だからな。良い娘さんとお婿さんとお孫さんで、女将さんも楽しみだな。もし、お孫さんが親に反発したり、疲れたりしたら、女将さんは、唐津にお孫さんを呼んで、何も聞かずに黙って、美味い魚をさばいてやればいい」

女将さんは嬉しそうに笑い、
「稲田さん、ありがとうございます。今回は、風が強く、漁が無く、唐津市内に『イカの活き作り』が消えてしまったので、申し訳ない。また、食べに来てください」
と、しきりに恐縮するのだった。

私は、トランプのような自己中心だけの品格のない人間がまかり通る現代において、初対面の人たちと胸襟なく語り合える唐津の風土の中に、日本人が持っている独特な遠慮さと優しさを見出した事に、素直に感謝したいと思った。

―女将さん、お孫さんは、きっと、良い人生を送るのに違いないよ―
 
唐津 御宿海舟
 
 
 
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