数年前、仕事で長野の小諸に行った。ナノレベルの酸素が含まれている水が野菜の成育に効果があるのかを、圃場で検証するためのプロジェクトに参加したのだ。
プロジェクトの日、長野新幹線で佐久平まで行くと車が迎えに来てくれていた。到着時間が12時過ぎだったので、参加者全員で名物の『胡桃ソバ』で昼食を取った。『胡桃ソバ』とは、この地の名物である胡桃を、小さな『すりこ木』で粉状にすりつぶし、そこに、そば汁を加え、信州の田舎そばを絡ませ食べるのだ。胡桃の甘みとすり潰した粒が微妙にそばにからみあい、独特な風味が口いっぱいに広がった。

蕎麦屋での昼食を終えから10分ほどで圃場に着いた。同行した大学の先生方は、間口5.4mのハウスに入り、実験のために試験区について、巻尺を使い計りながら、ハウスを管理している企業の担当者と打ち合わせしている。

私は、しばらくは、彼らの会話に耳を傾けていたが、ハウスから出て、目の前に浮かぶ浅間山を眺めていた。

<この景色は見たことがある>

と思った。

視察を終えた私は彼らと別れ、近くの平原駅まで送ってもらい、『しなの鉄道』で信濃追分駅に向かった。圃場で見た雲がかかった浅間山は、かなり昔、私がこの地で見た景色だと思い出したからだった。若者によくある「進路が良くわからず、悩むことが答えを出すことの近道」だと信じていた時だった。私も若かったのである。

信濃追分の駅は昔と同じで駅前には何もなかった。ただ、駅前がロータリーになり、清潔なトイレが時代の移り変わりを映していた。駅を出て線路沿いの坂道を登り道沿いに右におれ、三叉路の真ん中の道を追分宿に向かった。

記憶と言うものはおもしろい。追分宿が三叉路のどの道かは正確には特定できないのだが、何の迷いもなく真ん中の道を選び、しばらく歩くとこの道に間違いがないと確信できるのだから・・・・
国道の下のアンダーパスを通り抜け追分宿に入った。左に行くと昔泊まった油屋があり、その先が中仙道と北国街道との『分去れ』に、右に行くと浅間神社になる。

私は、左に曲がり油屋に向かいしばらく進んだ。記憶にある低い石垣が右側に見えた。この石垣に沿ってゆっくりと目を移すと、右手奥に見覚えのある2階だての建物が見えた。小さな石が積み上げられた門の代りの石垣は、小さな木や雑草に覆われていた。その石垣を通り過ぎると、私が昔泊まった油屋旅館の2階建ての三角形の屋根の面影が、私の記憶に蘇った。白い漆喰の壁を背景に、黒い木が平行に、その平行な木に、やや細い黒木が縦に走り、白い漆喰が黒の木枠の中から浮かんでいるコンストラストが、昔の記憶を浮かび出してくれたのに違いない。私の記憶では、玄関を入ると右側に帳場があり、その横には小さなお土産が置いてあった。その時は、確か、玄関の上の2階の部屋に泊まったのだが、正確には覚えていない。私は足早に歩を進め、建物の前に立った。記憶の中の油やと同じだった。

玄関の敷居をまたぎ、靴を脱ぎ中に入った。大きな薪ストーブが目の前にあった。左を見ると小奇麗なカフェになっている。
「コーヒー飲めますか?」
と、私は、カフェの女性に聞いた。

私が昔泊まった油屋旅館は、平成24年に改装し素泊まりの宿として再出発したとのことだった。この宿は、その昔、中仙道追分宿の脇本陣で、昭和の初め、四季派の堀辰雄や立原道造が好んだ宿で、多くの作家たちが執筆に利用していた。私も若い時に、一時、四季派に憧れ、この宿に泊まったことがあった。現在の油屋は昭和50年代に増築され、新しい経営者で、新たな文化発祥をめざし、人が歩き、学び、楽しむ追分コロニーして、出会いの場をコーディネートしていた。

<コーヒーを飲み終え『分去れ』に向かった。『分去れ』の道標の前に立っていた昔の自分の姿を思い出したからである>

道標は、昔と同じ、国道と旧道の間にあった。道標のそばには、石の常夜燈などが当時のままに立っており、石碑には、「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」の歌が刻まれていた。この歌は、右へ行けば、更科から長野・善光寺を越えて越後へと続く北国街道を、左に進めば、下諏訪、木曽路の妻籠を経て草津へと続く中山道であることを示している。

そのころ、私はアメリカの大学院進学か国内の大学院への進学について悩んでいた。当時は、今と違って、海外へ出る若者は少なく、出るとなれば、大きな決断が必要だった。私は、結局、国内の大学院に進学したのだが、当時を振り返り、今、考えてみると、私には単に海外に行く勇気がなかっただけのような気がする。その勇気のなさを隠すかのように、海外へ行かないための理屈、屁理屈を、論理的にかっこをつけて考えていたのだ。若さというものは、人生を局所的に捉えるしかないために、ある面、残酷なところがあるのだ。

今、思えば、人生にはいくつもの『分去れ』がある。多くの人は、『分去れ』に出会うと、真面目に一生懸命に考え、それぞれの道の損得を考え決断するのである。しかし、その決断は、必ずしも論理的ではなく、自分のように勇気がなかったり、他人の目線を気にしたり、見栄などが原因だったりする。

もしも、あの時、この道標の前でアメリカ行きの決断をしていたら、今、自分は、この道標の前にはいなかったかもしれない・・・・・

<いや、そうではないだろう>

人生などは自分が思っているほどに複雑ではなく、今とは少しばかり異なった人生を送った自分が、今日と同じように、この『分去れ』の前に立ち、同じような事を考えていたのかも知れない。人生などは、おそらく、そんなものなのだろう。
 
信濃追分文化磁場油や
 
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