-今は亡き、友人IとEに捧げる-
数年前の秋、仕事で秋田に行った時に本荘という街まで足を延ばした。この街に住むIがその前年に癌で亡くなったが、私は東京での仕事が重なり葬式には参列できなかった。同じ町に住む共通の友人のEが、秋田に来る仕事があれば、昔話をしながら故人を偲ぶからとの誘いがあり、今回、その機会ができたので、秋田駅から日本海沿いに走るローカル線に乗りその町に向かった。

駅に着き、指定された温泉旅館にタクシーで向かう予定だったが、着いた時間が、かなり早かったので、思い切って歩くことにした。空が高く天気が良かったことがそうさせたのかもしれなかった。

駅前から国道を進み、少し歩くと、左側にコメどころの秋田の風景が目に飛び込んできた。黄金色に染まった稲穂が、緩やかな風に「ユッタリ」と揺れていた。私は幹線道路から横道に入り畦道に降りた。50mも歩くと黄金色の稲穂の海の中に私1人が取り残されているような錯覚に落ちいった。私は稲穂の風に流れる音をとらえようと目を瞑った。微かな稲穂が擦れる音が聞こえた。久しぶりに心が動かされた。
温泉旅館につき、Eの「先に着いたら温泉につかって都会の垢を洗っとけよ」との言葉に従い、温泉に浸かった。私は外の露天風呂に浸かり、亡くなったIの事を思い出していた。
秋田は杉の国である。秋田県北部の米代川の流域秋田天然杉の産地として知られているが、高度経済期に県内全域で杉の植林が盛んに行われたが、輸入財の増加により、国産材の価格は低迷し、森は手入れができない状況になっている。Iは、この荒れた森林の管理・伐採を生業にしていた。一度、彼の誘いを受けて、森林伐採の現場に行ったことがあった。
スウェーデン製のハーベスターを初めてみたのだが、その巨大な機械の腕が、ロボットアームのように、樹木の枝をアッーという間に「バリバリ」と削ぎおとし、瞬く間に丸太に変換していた。

その日は作業を早めに終え、夕方に、由利本庄と矢島間を往復している由利高原鉄道鳥海山ろく線がビール列車になるとの情報を得て、3人でビール片手にこの列車に乗りこんだ。矢島駅に着くと、皆と離れ、一人駅のはずれにあったイスに腰をかけ、空を仰ぎながらビールを飲んだが、空は曇っており「満天の星空」とはほど遠く、がっかりしたことを思い出した。

座敷に入るとEがすでに席についていた。彼は亡くなったIの高校からの友人で、同じ大学に進学し、同じ年に卒業し地元に戻り就職したのである。彼らと知り合った時に、なぜ、故郷に戻ったのか訊ねたことがあった。
―自分たちは長男だから家を継ぐのだー
と二人は明快に答えた。私は、その答えを聞き、なぜか嬉しかったことを覚えている。

Iとは4年前の大曲の花火大会の時に、秋田川反の小料理屋で飲んだと私が呟くと、Eは視線を横に動かしながら、―確か奴が手術をした後で体調が少し戻った時だったなー
と言った。私は頷き、Eが持参した白い濁酒のグラスを口にもっていった。嫌味のない切れの良い濁酒は、今は亡きIに似たしっとりとした味がした。
そこから、濁酒がなくなるまでの2時間ほどのあいだ会話が弾んだ。

私が、Iの家は10代目だったよなと言うと、Eは少し顔を赤らめて、俺の家は17代目だよと言った。私は、程よい酔いが回ってきた頭で計算した。

17代目と言えば1代を25年にしたって425年前、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を囲んだ1590年、30年にしたらなんと510年前の室町時代になる。鉄砲が伝来した1543年(諸説ある)より前になるのだ。メイフラワー号が102人のピューリタンをのせてアメリカのマサチューセッツ州プリマスへ到着したのが1620年、アメリカ独立戦争が1776年だから、Eの家はそれよりズーと前から在ったということになる。さらに、驚いたことに、Eの住んでいる家は、17代前の先祖が住んでいた場所のままなのだ。
 ―でもな、自分の集落で20代続いた家がついに20代目で幕引きになる。21代目が都会に出て行ってしまい、戻ってこないからだー
とEは自嘲気味に言った。翌日、Eの案内でIの墓に線香をあげ東京に戻った。

暫くしてある会合でアメリカ人の友人と会ったので、秋田で17代続く家と20代目で家を閉じた話をした。
この友人は驚いた顔で私を見て、
「日本と言う国は変わった国だ。17代、20代も続いている農家は、世界には、ほとんど、ないだろう。17代続いた家、20代続いた家は、日本人の貴重な文化の一つなのだ。それを、評価しないで、グローバル化だ、効率化だと言っている日本人はクレージーだ。日本は、もっと自分の国の価値観を大事にしたほうが良い」
とアメリカ人のトレードマークの両手を広げるポーズで言った。
―アメリカには、17代も同じ所で続いている家は存在しないー

よく考えてみると、西洋人は、もともと、狩猟採集民族だったから、獲物がいなくなれば獲物のある所に移動するのは当たり前なのだ、これは現代も続いていて、アメリカ人の多くはカリフォルニアでの仕事がなくなり、東海岸のニューヨークに仕事があれば、問題なくニューヨークに移るのだ。これに対し、日本人は、水のある川辺の高台に定住し主食のコメを作っていた。今でも、故郷に愛着があり、盆や正月には日本列島民族大移動が起こる。

このように考えると、日本人とアメリカ人の価値観は違って当たり前なのかもしれない。日本人は、もう少し自分達に自信をもってもよいのかもしれない。何も世界が「グローバル・スタンダード」一色にならなくても良いのではとこのアメリカ人に教えられた気がした。

(この原稿を書いた1年後にEも旅たった)
 
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